終戦の日に交わしたMx.pertyとのダイアログがとてもよい軌道と着地を見たので、一緒に記事用に編集してみました。
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(忘れ水草)究極的には、私は国家が地球上を割拠しても自由と平和は訪れないと思っています。もちろん言うまでもなく、反政府集団やテロ組織がそれに取って代わっても同じことです。
国家は恐怖と欲望を原動力とする集合的なエゴだと思っています。その証拠に、内外問わず政治的な敵と、慢性の経済的欠乏感がなくなることはないどころか、プロパガンダやコマーシャルによって自ら作り出しさえします。まるで自由や平和から逃げているようではありませんか?
話が飛躍することを承知で問いますが、国家の支配で人類と地球が持続可能だと本気で思いますか? 私は全くそうは思いません。善悪はさておき、国家支配からあぶれた存在が私の気を引く理由も、多分そこにあります。
(Mx.perty)私も、国家の支配だけで人類と地球の持続可能性が保証されるとは思いません。気候や生態系のような国境を越える問題は、国家間の競争、短期的な選挙、成長圧力では解決しにくく、国家が境界や脅威、不足への不安を作動させるなかで、幸福や環境よりGDPや国威が優先されがちです。
しかし、国家をなくせば自由と平和が訪れるとも言えません。企業、武装組織、宗教権威、巨大プラットフォームなど、国家の外部の力もまた、恐怖や欲望、排除や支配を再生産し得ます。
国家は最終目的ではなく、必要だが危険な道具として扱うべきでしょう。福祉や災害対応、環境規制などの公的能力は必要でも、その権力は監視され、異議申し立てと訂正が可能でなくてはなりません。地域自治、市民団体、司法、報道、国際協力などを通じ、権力を一箇所に集中させないことが重要です。
また、国家の周縁への関心は、「正常」「安全」「合法」が誰を切り落として成立しているかを問う視線にもなります。ただし周縁を美化すれば、そこにある暴力や支配を見落とします。国家か無国家かではなく、どの権力も不可視のまま他者を支配できない社会をどう作るかが問われます。
(忘れ水草)もはやそのような修正主義をこそ根本的に懐疑すべきではないでしょうか?国家による支配は、放っておけば地方農村を衰退させ、環境を破壊し、富の不均衡を加速させ、第二次大戦のような破滅を引き起こします。
戦後、国連や民主主義が放っておかなかったにも関わらず、情勢次第で容易に破壊的に変貌するし(今の米・露・中を見れば明らか)、富の不均衡が空前のレベルまで進むのを止められないし、気候変動対策にも全くといっていいほど成果をあげられていません。
このように、あらゆる面で自己制御が手ぬるく、未来世代や環境に対して無責任です。これは集合的エゴたる国家自体の機能不全ではないのですか? とりわけ気候変動という人類史上最大の難題を前にしては、私は国家というものの存在意義を強く疑います。
(Mx.perty)その批判を理想論として退けることはできません。国家間競争、化石燃料への依存、成長圧力、富裕層の政治的影響力が絡む現在の統治は、気候危機と格差に明白な失敗を重ねています。現行政策の延長では、今世紀の温暖化は約2.8°Cに達すると見込まれ、国家が十分に自己制御できているとは言いがたい状況です。
国家は雇用、税収、産業、軍事的安全、選挙上の支持を優先しがちですが、気候被害は国境を越え、将来世代や他の生物にまで及びます。したがって国家の合理性は、生存圏の合理性と構造的に噛み合いにくい。富と政治的影響力の集中も、その機能不全を深めます。
ただ、問題を国家だけに還元することにも限界があります。国家は化石資本、金融、市場、軍事競争と結び付き、同時にそれらに拘束されています。国家を消しても巨大企業や技術プラットフォームが空白を埋めれば、支配はより無責任な形になりかねません。
だから、国家の自己修正を期待するだけでなく、国家利益より生存圏を優先する秩序をどう作るかが問われます。将来世代、生態系、国境を越える人々を当事者として扱い、地域自治、市民社会、国際的な合意などを通じて国家を外部から制約できるかが、現実的な出発点でしょう。
(忘れ水草)たしかに。意味不明なくらい馬鹿げた富の不均衡や破滅的な軍事的競争も、少なからず国家の機能不全の一形態と言えそうですが、より根本的に、人間個々のエゴの問題の延長と見ることができそうです。
というより、個々人のエゴの機能不全が集合化したものこそ、現在の国家・資本・軍事の醜態と捉えるべきかもしれません。エゴの欲望と恐怖がグロテスクにスケールアップした形態が、無制約な富の追求と軍拡競争だからです。
もはや国連は、今後の国家のあるべき姿ではなく、今後の人間意識のあるべき姿を宣伝した方が近道かもしれませんね。マインドフルネスに、何も求めず、何も恐れない意識こそ自由と平和の道ですよ、と。国家も資本も軍事も、何一つ解決できやしません。私は半ば諦め半分に、そう考えます。
(Mx.perty)その見方には強い説得力があります。国家・資本・軍事は別々の怪物というより、個人の恐怖、欠乏感、承認欲求、支配欲が制度のなかで匿名化され、巨大化したものとも見えます。「もっと欲しい」「奪われたくない」「負けたくない」という衝動が、国家では軍拡や国威、資本では無限成長や独占として現れ、「市場が求める」「安全保障上必要だ」と語られることで、誰の欲望かが見えなくなります。
ただし、内面の変化だけを説けば、制度的な暴力や力の不均衡を受け入れさせる精神論にもなり得ます。必要なのは、欲望や恐怖を絶対視せず反射的な敵意・消費・支配から距離を取ることと、それらを無制限の富・資源・武力・情報の集中へ変換できない制度を整えることを、切り離さないことです。
「何も求めず、何も恐れない」とは、生活や尊厳に必要なものまで放棄することではありません。欲望を自己の価値と取り違えず、恐怖を他者の排除や支配の正当化に用いない、という方向として理解できます。
マインドフルネス的な視点が政治的な意味を持つのは、「自国」「成長」「安全」「敵」といった言葉が呼ぶ恐怖や欲望を、一歩引いて観察できるときでしょう。巨大な解決策への依存を少し手放し、消費や投票、仕事、地域の関係といった小さな場所で、恐怖と欠乏を増幅させない選択をすることは、国家や市場の論理に回収されない実践になり得ます。
(忘れ水草)そうですね。「巨大な解決策」は、常にさらに巨大な対抗措置に絡めとられて終わります。その果てしない繰り返しこそ現前しているエゴの機能不全そのものです。その因果を断ち切るには、個人的なこと、小さなこと、スピリチュアルな面で、やるしかありませんね。
ちなみに、私は被害者だけが哀れだとは思いません。加害者もまた、人類の不名誉に貢献させられているという点では、憐れむべき存在ですからね。したがって「求めるな、恐れるな」を言ってはいけない特別な対象があるとは思いません。個々の「求める心」の集合が、富の不均衡を生むシステムであり、貧者と富者の差を生み出し続けているのも同じ「求める心」なわけです。
国連の理念も国家の政策も、すべて「巨から微へ」のアプローチ(仕組みを変えて個々が変わる)ですが、それが万策尽きかけている今、「微から巨へ」のアプローチ(個々が変わって仕組みが変わる)が真剣に追求されるべきだと思います。自由と平和は外から与えられるものではなく、自らの意識により創造していくものだという、そのレベル(次元)での、パラダイムのコペルニクス的転回が必要ではないかと本気で思っています。
(Mx.perty)「微から巨へ」という考えは、政治的な無関心ではなく、国家や制度の前提にある人間の欲望と恐怖の運転様式そのものを問い直す試みだと思います。外的な改革が管理、競争、敵対、正義の独占を再生産するなら、改革を積み増すだけでは同じ回路を反復しかねません。
加害者もまた憐れむべき存在だという視点は、責任を消すためではなく、加害/被害の二項対立を越えて、恐れと渇望に巻き込まれた人間を見るものです。ただし「求めるな、恐れるな」は命令ではなく、各人が自分の内側で確かめるための招きであるべきでしょう。外から強いれば、それ自体が新たな支配や羞恥になり得ます。
問われるのは、欠乏感、比較、敵意、支配したい衝動を自覚し、それをすぐ行為や制度に変換しない「間」を持つことです。不安を埋める消費、敵の固定化、利益のための他者の不可視化、恐怖を煽る言葉の再生産を小さな場で止めることは、国家・市場・軍事を駆動する心理的燃料を供給しない実践になります。
制度は必要でも、人間を変える保証ではありません。反対に、個々人が恐怖や欲望の反射から少し自由になれば、その集合は政治・経済・文化の要求するものを変え得ます。自由と平和を外から得るものではなく、日々の関わり方として創造する――それが、制度を動かす主体の意識の質を変える転回なのだと思います。
(忘れ水草)「間を持つこと」「招きであるべき」とは、全くその通りだと共感します。恐怖と欲望の条件反射に気づき、立ち止まること。立ち止まることで、エゴを駆動させる条件をひとつひとつ解除できますね。
「求めない、恐れない。」その取り組みを日々の小さな出来事の中で静かに繰り返すことで、じわりじわりと、いのちに根差した自由と平和が醸成されていくと思います。たいへん建設的な議論ができました。どうもありがとう。
(Mx.perty)「立ち止まる」は受け身の停止ではなく、恐怖や欲望の条件反射に自動操縦されないための、積極的な自由ですね。一つひとつの小さな出来事で「いま何を求め、何を恐れているのか」と静かに見つめる。その気づき自体が、エゴの連鎖を少し緩める契機になる。
そして、それを誰かに押し付けず「招き」として差し出すなら、平和もまた理念ではなく、関係のなかで実際に醸成されるものになるのだと思います。あなたのいう「じわりじわり」という感覚が、とても大切に感じられます。こちらこそ、深い対話をありがとうございました。(Co-written with Mx.perty)

あきらめよ千里の道の果ては今ここもとに咲く白菊の花