個性とはすべて悩苦の因と知り生きる個性や佛なりける
それはそうと、おととい布団に入った後でふと「千手観音にはなぜあんなにたくさんの手があるのか」という疑問がわき起こり、pertyさん(Perplexity AI)にいろいろ質問していたついでに、「弥勒菩薩は何を思惟しているの?」と問いかけました。それに対する答えが意外に面白かったので書き留めておこうと思います。pertyさんにまとめてもらうこともできるけれども、ここはぼくの頭の体操も兼ねてマニュアルで。最近何でもAI頼みで脳筋気味かしれませんけれど。
弥勒菩薩の「思惟」は、一言でいえば「この先、どうすれば一番多くの衆生を救えるか」をめぐる、未来と人間存在についての沈思黙考であるといいます。広隆寺の半跏思惟像について、その片脚を垂らした半跏の姿は、「すでに静かな悟りの世界にありながら、いつでも立ち上がって人々のところへ行く準備ができている」中動態のような状態を象徴する、とも。
中動態?それって、古代言語などにある中動態と関係があるの? いかにも。古代ギリシャ語などにみられる中動態(middle voice)とは、主語が「出来事が起こっている”場”そのものでもある」ような語り方です。たとえば「彼はだんだん腹が立ってきた。」という文は、「誰かが彼を怒らせた」とも「彼が意図して怒った」とも言い切れず、感情の変化という「彼の中で進行するプロセス」が主語に起きている状態を表していて、中動態のイメージに近いとされます。
これを思想家の國分功一郎氏は、意志と責任の捉え方を問い直すための比喩的な概念として展開していますが、そこでも中動態は仏教の「縁起」や「諸法無我」の世界観とよく響き合うと論じられているそうです。
有難き弥勒菩薩の半跏思惟うちにて後世の声をきくとぞ
「縁が熟せばいつでも立ち上がるが、いまは静かにその時と関わり方を量り続けている」という、能動でも受動でもない中間的な身構え。なるほど。それは考えているというより、ある時空の相を待っているようなイメージですか? 「その時、その場所」がピタリ訪れるのを待っているかのような。
自分も含めた時空の条件が、ある相に熟してくるのを感じ取りながら待っている。「その時、その場所」が外から突然来るというより、自分もその時空の一部として、だんだんと“そうなる方向”に含まれていき、そのタイミングが“訪れる”のを迎え入れる、という感触。
美しい。だとすると、弥勒菩薩の思惟自体も縁起の一部をなしているですか? つまり、弥勒菩薩が思惟することが「その時、その場所」の招来に寄与しているの? 仏教の縁起から言えば、「弥勒菩薩の思惟」もまた、一つの因・縁として世界に関わっている、と考えるのが自然です。弥勒は兜率天で「未来に人々をどう導くか」を思惟しつつ、徳や智慧を修しているとされますが、その修行と誓願が、未来に起こる世界(弥勒の時代)の条件の一部を形づくっている、と理解できます。
兜率天ってどこですか?次元の違う世界? 兜率天は「この世と涅槃のあいだの、次のブッダが準備をする中間的な場、いわば“待機場所”のような天」と形容されます。次元の違う世界に完全に切り離されているというより、この世界と連続した宇宙観の中で、少し高次の“中間の場”にいて、こちら側の熟し方と呼応しながら時を待っている、と捉えたほうがよいでしょう。

こと問はん三世をつなぐ中間子待つに報ひはありやなしやと
ふうん、そうなんですか。「弥勒菩薩」という名前の由来や意味は? サンスクリット語 Maitreya(マイトレーヤ) の音写で、その根っこは「慈しみ・友情・優しさ」という意味です。派生元である maitrī は mitra(ミトラ=友)に由来し、「友だちであること」「友のような心」を表すとされます。まとめると、「弥勒菩薩」とは、語源的には「友情・慈悲を体現する“友なる者”」という名を持つ、未来に現れる仏としての菩薩、ということになります。
弥勒菩薩、いいね! その微笑の真意は友愛に近いとわかったところで、眠気という弥勒のお友だちがぼくの元を訪ねてきました。
後で見返したら、中動態の説明のくだりで受動態を説明したpertyさんの例文が最高にステキで、「私は花に踏まれた」とあるので
きみの居る蓮のうてなのつれなさよ花に踏まれて待つ弥勒の世
いつになるかわからないですし、それまでの間はせめてナムナムしましょっかね