すきですたましひ

 これちょっと前のやつですけれど

さよならも言わずに去った君はきっとやあも言わずにまた現れて

 生まれ変わりって信じる?って訊かれたら、たぶんノーって答えると思うけれど、ぼくはこころや身体とは別に「たましい」という存在があると考えております。
 それらは肉体や自我に関係なく時空間を自由に行ったり来たりできるものだから、ちがう時空間の2地点にたまたま同じ「たましい」同士が居合わせたなら、その2点に居るひとの自我と口とを借りて「このひと、以前(※時間軸的には”後”かもしれない)どこかで会ったことがある気がする…」と語るのは、むしろ自然なことのように思われるのです。déjà vuとか因縁というのもそれに近い感覚ととれるでしょう。

 一部の病気や、不運としか言いようのない事故や事件の当事者となる方々の「どうして、わたしだけが?」という問いへの答えは、重々慎重にならなくてはならないことはぼくだって心得ております。けれども、手っ取り早く高い次元でこころの平衡を取り戻すには、前提そのものをアップグレード(一周回ってダウングレードかもしれませんが)してみるのが一つの手だとも思っておりまして。

 古来より人々は、それらの「たましい」を神々や天使、精霊、こびと、鬼、妖怪といった愉快でファンタスティックな姿にて表現してきたように思われます。それらを荒唐無稽、非科学的(その通りだけど)と言って打ち捨ててきた結果が、カネとモノだけが最終的に物を言うかのごときささくれた世界のあり様であってみれば、「たましい」の存在を今いちど認め直し、各人の表現のうちに取り込んでみることは不可欠なのではないか、とさえぼくには思われるわけです。

 「たましい」の取り込み方はとっても簡単です。たとえば「あの野郎め、またしくじりやがって」と怒るところを、「大方きつねかこびとでも憑いたんだろ、しゃあねえな」と語り直す。それだけで、そこに「たましい」は喜んで宿ると思います。なにも創作や芸術作品だけがたましいの拠り所なのではなく、日々の語りや思考の端々にだって彼ら/彼女らの居場所はたくさん作れるのです。たましいの喜びの「わーい!」は、ひと側の感覚で言えば、「納得」や「腑落ち」に近いでしょうか。スッとこころがすく、あの感じ。隙、空き、好き、数寄、梳き、救ひ… ほらね、そこに「たましい」があるんです。

 その(積み重ねならぬ)”すき重ね”のプロセスこそが、目に見える存在にとっても、見えない存在にとっても、真に平和な世のなかというものではないでしょうか。それは、妥協や多数決ではない、全員のこころが空っぽになるまで話し合う民主主義の究極の理想とも重なる。

 まあこれも、自身らの復権を希う「たましい」の代理人さんか誰かが、たまたまぼくの自我と口とを間借りして、しゃべり立てているだけかもしれませんけれど。無責任かな。でも、そうだと思わなければ、この期に及んで言葉を吐く意味なんて、少なくともぼく自身の内には見つからないんですよねえ。なにか気高い存在のために捧げられるのでなければ、いかなる表現とて、たかだか吐息の延長か電気信号の派生にすぎない—ぼくはそう思っておりますので。差し出がましいことを、どうも長々と失礼いたしました。

僕の中いつも誰かが騒ぎ立て後で責任取らされる僕

 なんかいろいろ、めんどくさいですよね。