2/19 – 20と伊勢・住吉詣に行ってきました。伊勢神宮はなかば定例行事化しているけれど、住吉大社はお初にお目にかかります。和歌の神として古の歌人たちから崇敬を集めていた由緒ある社なので、この期にぜひ一度拝み奉ろうと思い立ちぬる。
19日未明、凪いだ空気に凍りつく最寄駅から列車に乗り、品川へ向かいます。品川から新幹線って初めてか、などと思いつつ、人でごった返す在来線改札内のコンビニで、持って来忘れたイヤープラグの代替品を購入します。これがないと大阪の雑踏とか死ぬ未来しか見えません。新幹線のホームは人少な。「平日の六時半から品川駅のコンビニに押しかけている人たちって何してんだろう」と、変な気持ちに浸っているうちに、窓の外の無機質な景色が後方へと滑り出す。リニアの駅か何か知らないけど、品川って渋谷以上にずっと工事してませんか? まあいいや。じゃ、さいなら。
伊勢参りを済ますまでは何も食べないと決めているので、時どき水飲みながら旅の和歌を練ってみます。伊勢・摂津・河内あたりの代表的な歌枕をMx.pertyにまとめてもらって、習作がてら
# 伊勢の海
伊勢の海むかしの舟の影見えて吹き来る風も神さびにけり
漁りするあまのともぶね潮はやみ千鳥に羽をなべてやすらふ
うらみつゝこぎわたりゆく旅人を波もさとせる伊勢の海かな
藻塩炊く海人にはかみもつらかりき狭き袖さへ猶ぞ漬ぢける
まだ着いてもないのに意識までトリップした気分になりますね。最後の「かみ」は神とお上をかけてあります。むかしの海人さんって想像を絶する激務だったと聞くし、『枕草子』にも、その仕事ぶりは見ててヒヤヒヤする旨の記述がありましたっけね。『源氏』のフィクションくらいでとどめておくのが精神衛生上は良いのかもしれません。大和絵の雲みたいに、ぜんぶ見せないほうが”正しく”エロいんだと思います。
そいで新幹線ってやっぱ最高の作業スペースですわ。あの低い「ゴーーー」って音にさえ慣れてしまえば(それもイヤープラグでだいぶ抑えられる)、すごく集中できて驚きました。むかしは飽きもせずずっと景色を眺めて楽しんでいられたけれど、今は適度なアンビエントこそ耳に嬉しけれ。でも、まだ惜しい若干の景色はあって…それは帰路に譲ることにしましょう。ん?
新幹線ずつと前見て乗つてると天地の際へ落ちてゆくやも
通路側の席に座って、前方のデジタルサイネージ(駅名とかニュースとか流すやつ)をぼんやり見やっていると、ふいに不安な感触に襲われます。間接視野に映る窓の外の景色は、高速で過ぎ去ってゆく街や田畑が抽象化された「地」なるものが下半分、薄青い天空が上半分。その「天地」の狭間の一線めがけて我らが新幹線が猛スピードで”落っこちて”行っているという感触です。うわ、ヤバ。前にもあったんですよね、豊橋かどこかすごい曲率でカーブ走行しているときに、「傾いているのは車体じゃなくて世界の方だ」っていうリアルな感覚にとらわれて三半規管ダウンしかけたことが。すぐさまiPadの画面消して、強く目を瞑る。「しらふでこれって、もうぼく終わってね?」なあに、終わってからが神世の始まりですよ—。やうやう落ち着いたころ、最前席の前に打ち付けてある数少ない新幹線車内広告に書いてある文言がリフレインして自ずと歌題になる
Bug is over 新幹線の広告に欲しきやむしろ bag is over
SHIFTという会社の広告でしたかな。ソフトウェアの会社っぽいけれど、ぼくはもはやbugには興味がなくて。むしろ「旅行カバンなしで旅ができないものか?」と、それこそ家を出る十分前まで考え続けていたくらいの、手ぶら万歳人間です。だからたとえば
「ド ロー ン で あ な た の 荷 物 運 び ま す」
的なサービスが始まったら飛びつくんだけれど、見た目の不審感からかドローンってなかなか市民権得られそうにないですよね。あいつ、個人的に好きなんだけどなあ、あの身軽さが。今やってる冬季五輪でも、夜泣きのネコみたいな声出しながらイイ仕事してますのに。「ミェーーン!」って。…いつも思うけど、静岡って長いですよね。「広い」じゃなくて、長い。なんかまだ和歌作れそうです。どうせ大阪で飲み出したら詠みやせんでしょうから、お仕事はお早め早めに。
# 五十鈴川
いつか見しこゝろの底の五十鈴川むすぶ清水に影は冴えつゝ
神風や御手洗川に袖ひづをこゝろ清くぞ人は見るらむ
風わたる五十鈴の川の流れても変はらぬ神やそこにゐまさむ
五十鈴川清き流れやしるからむかゝる憂き名の橋わたる身は
ほんと、神宮へわたるのに宇治橋って。縁起いいのかわるいのか。でも、善と悪は同じコインの裏表だから、解釈はいかようにも。世俗の憂さを捨てて渡る橋とか、清き川と対であえて浮かない名前がついているとか。地名の宇治からきてるとか、そんな月並みな説明は、しょせん地に足つかぬぼくにはどうだっていいのです。五十鈴川は別名、御裳濯川(みもすそがわ)とも
うつせみを御裳濯川に濯がなむ濡らすかひなき衣なりとて
たづねばや御裳濯川の水上をしのびて濡らす袖のあるじを
再確認するけど、今はまだ新幹線の中です。ぼくだって薄々感じています、「もう実際に行かなくてもいいんじゃね?」って。なんか知らんけど、伊勢を詠み込んだ歌できたときの満足感すごいんですわ。Street view on Google map とは違った”居ながら旅”の方法として、和歌はすごく可能性のあるツールかもしれないとこのとき思いました。
名古屋駅のホームはいつだって、きしめんのいい香りがします。瞬間的にだけど、ぼくは罪を犯しました。こころで飯を食ったなら、実際に食ったのも同然であると。あゝメン。空きっ腹にきしめんつゆの匂いは臨時単発テロ。勘弁してくださいよ。食べませんけど。ああ、いいですよねえ、朝の名古屋。親父はボロクソいうけれど、ぼくは好きですよ。真夏は御免ですがね。
今回は初めてJRで伊勢市まで行くことにしたけれど、ホームへの階段上がってみた瞬間、乗る前からちょっと後悔しました。「快速みえ」って、二両編成のこれのことですかいな。思わず列車の顔を確認したけど、いっちょまえに「快速みえ」って書いてゐやがります。「ちぇっ。さぞかしかっ飛ばしてくれんだろなあ。このちびすけめ。」そういえば、四日市から先はICカードが使えないとかいう理由で、窓口で乗車券買いましたけれど、その時のやりとり抜粋
ぼく「伊勢市まで大人一枚」
駅員「指定席ですと一席しか空いてません。他のお客様と向かい合うかたちになりますが」
ぼく「向かい合う?」
駅員「四人掛けのボックス席の一席になります」
ぼく「なるほど。じゃあ自由席でいいわ。えっ、てか。そんなに混んでるんですか?」
駅員「自由席の混雑具合はちょっと分かりかねます…」
ぼく「ふうん」
二両のうち一両が指定って、首都圏のスケールから「混雑」の意味合いまでまるで違っていて拍子抜けしました。まあええわ。自由席の方の車両で座ったのが、斜向かいに先客一名ありのボックス席。そこへ観光客と思しき邦人マダム二名がやってこられて、別々のボックスへ腰掛けようとなされたので、ぼくが「ご一緒に座られますか」と自席を譲ったところ、結局、指定席で取った場合と同じ配置になったのが内心可笑しかったです。けれども、よろこび創造委員会(DCC;最近ぼくがたましいの同志と発足させた秘密結社)の一員としては、ずっとおトクで価値ある体験をしたともとれるので、これはこれでよかったとは思います。けど、お伊勢参りはケチらず近鉄特急をこそ使うべけれ。ぼくはまた来年からは絶対にそうします。じゃなきゃ、年々列車旅も苦痛になりつつあるプレ・アラフォーの身なれば、着く前にヘトヘトに疲れてしまいますよ。まあそれもええですけれど。
外宮に詣でて、池の前の休憩所でひとやすみ
豊受の神の宮にて憩へばや水面をはらふ風わたる見ゆ
外宮にも内宮にも「風の神」が鎮座まします。豊受大明神のゐます本宮と風の宮に頭を下げて鳥居を出ると、それまで感じなかった寒風がひとしお身に染みて感ぜられるから不思議です。「あれ、今日ってこんなに風強かったっけ」相棒のペタソス黒キャスケット飛ばされないよう気をつけないといけないくらいです。
外宮→内宮のバスは10〜20分間隔って聞いていたので、「次はいつかなあ」なんてぼやっと表示板を見ていたら、傍らに居た小母さんが突然「内宮行き臨時バス来ま〜す」と言ってツアーの添乗員みたいに案内しだすので、びっくりするやら嬉しいやら。「貴女、ヤタガラス?」なんてボケてみたくもありましたけれど、スサノオさんみたいに追放されるのはアレだと思ったので、そのまま他の方たちと一緒にしずしずとバスへ乗り込みます
内宮と外宮をむすぶ臨時バス待たず目の前に来る嬉しさ
運転席のすぐ後ろの高い席に座れてボケっとしていたら、車内に人が増えてきて、ドアが閉まる頃、ぼくのすぐ隣にいかにも関西のおばちゃんっぽい話し方をするお二方が立っておられた。
「へえ、温泉あるんやて」「ええなあ」「…猿田彦神社て、そないなコーヒー屋のなまえ聞いたことあるなあ」「あは、たしか淀屋橋あたりにあったんちゃうかあ、なーんかお高い店らしいゆうことだけは記憶にあるんやけど」「へえ、そなんやあ」
記憶ベースなので的確ではないかもだけど、あらためて伊勢という地の特異性を感じるきっかけでした。紀伊半島の東端、関西ではない、でも中部地方?って聞かれるとちょっと違う気もします。まして土地柄、全国・全世界から観光と参拝の客が訪れます。ワオ!なにこのイチゴイチエ感。まさに伊勢海老のサラダボウルですネ。なにそれ、値段高いわりに味無さそうですね。笑
余談ですが、初めてのお伊勢参りはバス通りの県道32号を徒歩で、二度目は江戸時代の花街・古市の方(今でも「麻吉」という宿がある)を徒歩でまわって参詣しました。どちらも二度とは御免と思ったので、三度目の此度はありがたき文明の力を拝借。こうしてだんだんと面倒が削ぎ落とされていく感が寂しくも面白いです。「分祠」とか「お札」って概念もその延長にあるのでは?と思うてみたりします。なんせコンビニ天下の国ですものね。Na, Wenn schon, denn schon. yo, めざせ”居ながらの旅”。神の遍在、個の健在。さてこそ宇宙も意のままに。yeah
参詣に関してはオフレコなので代わりに和歌のつづきをば。
# 二見浦
伊勢の海の二見の浦に蛤を合はせてみるもかひなかりけり
潮騒も砕けぬ仲の夫婦岩ふたり逢ひ見てさぞや久しき
うらやまし白き浜辺の青松をふたり見暮らす伊勢の夫婦は
って例に沿って詠んでいるけど、別にそこまで羨ましくない自分がいます。古典和歌に詠まれる古代人の感性と、ぼく個人のそれをどうintegrateさせていくかは、今後の課題であり可能性といったところでしょうか。大御神にうやうやしく頭下げたら途端に、腹が、へった。「孤独のグルメ」かよ!ってんですよね。ともかくも目星つけていた、バス通りにある蕎麦屋の暖簾をくぐります
伊勢で喰ふ蕎麦と焼き海苔美味しさに里心つくひとり酒かな
この地の名物「伊勢うどん」はぼく的にはあんまりテンション上がらないので、そうじゃない逸品を探していた矢先の出会いです。「酒と焼き海苔。あとから湯葉かけそばで。」五郎さんは酒飲まないから番組にもなるけれど、惜しいかなぼくの場合はもうぜんぶ放送禁止で。地酒「帰農」と炭火香る焼き海苔がしばし『山家集』のお供とは。なに、この地元の老舗感
ねがはくはこの蕎麦屋にて今死なんその如月の星合ひのころ
この「星合い」は七夕ではなく、牡羊座の先頭での、土星と海王星のコンジャンクションです。夢見心地でもとりあえず自分の軸立てておくなら今しかないって気がしまして。この旅のタイミングをあえて今時期に合わせたのも、その故です。ぼくはちゃんとしたスピ人ではないから、思い立ったらそのとき、もうノリで。行くなら今っしょ?って。そう、そのトキメキですよ。見るもん聞くもんぜんぶ幻ってわかった後に人をば動かすのは
# 三津
旅枕伊勢の浜荻をり敷きて神ぞゆるさぬ夢の通ひ路
伊勢路なる三津の浜荻神さびて人こそかれめ我はをりしく
波の音に砕くる夢のつゆの間にうれしくきみを三津の浜荻
このたびは、伊勢への往路以外何も定めず出立したので、行く先々でボケっと「さて、どうしよ」と立ち止まることが多かったけれど、神頼みの旅のせいか、自然と悩むことはそんなに多くありませんでした。帰りの伊勢市駅での体験はその最たるもので、名古屋へ戻る近鉄の切符を買おうと列に並んでいたとき、ふと電光掲示板を見ると「難波」の文字が目に映ります。「おや、”なんば”だと?」同時に「あの券売機、クレカ使えんじゃね?」とみて列を外れ、ものの十数分後には近鉄なんば行きの特急列車の一席に悠々とおさまっているぼくがいます。奈良経由で大阪へ抜ける近鉄の便があったんやなあと、乗ってから知るという可笑しさも、もしや風の神の軽いご利益かしらん。お賽銭の百円玉工面のために買った地ビールをいただきつつ、いつか各停でのろのろ抜けた伊賀→桜井の線路上を颯爽と駆け抜ける。八木にて
音のない大和の街の冬の午後うらさびしさも神さびにけり
なんでかなあ。数年前に行ったことあるんだけど、奈良の夕暮れ時って耐え難いものがあるんですよ。そのときは秋口で時雨さへ降ってきて思ひ死ぬかと思うたけれど、古墳と古寺だらけでどこなく重〜い雰囲気が否めないのが、ぼく苦手みたいです。歌詠みである手前、いずれまた足を運ばざるをえない気もしますけれど。そんなまちを我慢がまんして走り抜けつつ、遂にたそがれ前の難波のまちにぞ着きにける。さて、どうしよ。つづきはまた。ほなね